?  田原だより2000年2月26日 ?
 
 
図書館の話(設計プラン公開・説明会)
 
 新しい図書館の建築と文化会館の改修について、設計者の田戸さんから説明があって、皆さんから感想やご意見をいただくのですが、この田原の新しい図書館を理解していただくために、日本の図書館の歩みをごく簡単に紹介します。と言いますのは、今度作る田原の図書館が思いつきとか見てくれだけを考えた図書館ではなくて、日本の図書館の発展してきた道筋をきちんと踏まえたものになっていることを知っていただきたいからです。
 
 近代的な図書館というものが、日本に紹介されたのは明治のはじめのことです。当時のベストセラーで福沢諭吉の「西洋事情」という本にこういう風に紹介されています。
「西洋諸国の都府には文庫あり。『ビブリオテーキ』という。日用の書籍、図画等より古書珍書に至るまで、万国の書皆備り、衆人来たりて随意に之を読むべし。但し毎日書庫内にて読むるのみにて、家に持ち帰ることを許さず。」
 短い文章できちんと図書館を紹介しています。私が驚くのは、「家に持ち帰ることを許さず」と貸出しをしていないことを取り上げていることです。貸出しが図書館サービスの中心になったのは日本では1960年代になってからです、100年も前に、図書館の図の字もない時代に貸出について触れているのです。一万円札になった福沢諭吉という人のすごさを感じます。
 
 明治以降、近代的な図書館が輸入されて作られてゆくのですが、ごく大雑把に言って昭和20年までの公共図書館の特徴は2つあります。ひとつはとても小さい図書館だったことです。昭和11年の公共図書館は4609館、そのうち蔵書冊数1000冊以下が3055館でなんと4館のうち3館が1000冊以下のミニ図書館でした。文化会館図書室の蔵書が約3万冊ですから1/30です。いかに貧弱というか、図書館としては使い物にならなかったでしょう。もうひとつは、国民教化と思想善導という、いわゆる国策にそった教育と宣伝の活動です、本当はそういう力も無かったのですが、教育と宣伝の活動をすることによって図書館を認めてもらおうとしました。
 この二つの特徴をあわせると、戦前までの図書館は本の少ないごく貧弱な図書館なのに、人々が読みたい本というよりも、読ませたい本があるということになります。
 図書館を作っても誰も利用しないよという声を聞くことがあります。確かに、こういう図書館なら誰にも相手にされません。
 
 戦後になって、昭和25年に図書館法ができます。図書館法には大切のことがいくつかあります。まず図書館の利用は無料としたことです。図書館法第17条で「公立図書館は、入館料その他図書館資料の利用に対するいかなる対価をも徴収してはならない」としています。戦前の図書館は有料でした。それでは図書館法ではなぜ無料にしたのでしょう。それは本を読み、ものを考える人たちが町にいることが大事なんだ、そういう人たちが町を発展させ、安定させるのだという哲学が、図書館法を作った人たちにあったということです。図書館を無料にして図書館の利用を奨励することが社会全体にとっては有益なので、義務教育が無償であるように、図書館利用も無料にしたのです。
 それから、図書館は国の法律で一括して作るのではなく、それぞれの町の条例できめなさいとしてあります。学校はどこの町でもありますが、図書館を作るかどうか、どういう図書館にするのかはその町で決めなさいというのが図書館法の立場です。
それはこういうことなのです。昭和11年には公立図書館は今よりも2000館も多かったのです。けれども、先ほどもいいましたように、役に立つ働きはできなかったのです。その反省の上で、図書館法では役に立つ図書館を作るための手立てをしました。どういうことかと言いますと、図書館の補助金をもらうためには基準以上の図書館にしなさいということです。残念ながら図書館の補助金は2年ほど前に廃止されたので、この基準も無くなってしまったのですが、何を基準にしていたかといいますと、館長には司書をおきなさいということと、職員の中の司書の数、それから1年間に増やす蔵書冊数と建物の面積です。昭和25年の最低基準ですから、数字そのもののレベルは非常に低い基準なのですが、やはり明確な考え方がありました。
図書館は職員と蔵書と施設の3つの要素があるレベルにならないと役に立たない、そして役に立たない図書館は利用者に見放されて成長もしない。だから看板だけの図書館には援助をしない、良い活動ができる図書館を作る町に、補助金をだすというのが図書館法の考えでした。貧乏な町にこそ補助金が必要だと言う意見もありましたが、必要なお金をかけない図書館では良い活動ができないと考え方であったのです。
 
 ところで昭和25年にすばらしい法律ができたから、図書館が発展したかというとそうはなりませんでした。今から思うと、職員と蔵書、施設のどの面でも貧しかったので利用されなかったのです。貧しい中で個々の図書館では涙ぐましい努力をしましたが成果が上がりませんでした。読書会に力をいれて本を読む人を増やす、そして読書のリーダーになってもらおうとか、PTAを通じて少ない本の回し読みをするというような活動がありました。移動図書館も最初は目覚しかったのですが、すぐに尻すぼみになっていきました。昭和40年頃には日本全体の図書館の利用がどんどん下がっていって、『図書館雑誌』で「公共図書館は沈滞しているか」という特集号をだすような状態になりました。
 
そういう公共図書館が発展の軌道に乗り、手ごたえを感じるようになったのは1970年頃のことです。1965年に開館した日野市立図書館がめざましい実績を上げて、他の図書館にも影響を与えるようになりました。こうすれば欧米の図書館のように利用され、発展できるのだということをやって見せたのが日野図書館です。コロンブスの卵のような役割をしました。
なぜ日野図書館が当時の水準を超えて成功したのか、日野図書館の館長、前川恒雄は『移動図書館ひまわり号』という本の中でこんな風に書いています。「日本の図書館は教育し与える図書館であり、イギリスの図書館は奉仕し使われる図書館であった。図書館は、自立した個人が、自分の意思で、自分に必要な資料を自分で選ぶところであり、図書館員が良書と考える本を与えるところではない。」こう考えて図書館のあり方を革命的に変えていくわけです。当時の移動図書館はグループや団体への貸出が主流でした。それを自分に必要な資料を自分で選ぶために個人貸出にしました。それから借りた記録がのこらないブラウン式というプライバシーを守れる貸出方法にしました。また日本では前例のなかったリクエスト・サービスをこの時にはじめています。一番驚くのは図書費のことです。1966年、日野図書館の図書費は945万円でした。この年、都道府県立図書館のうちで、人口7万6千人の日野市より図書費が多かったのは当時の46都道府県の中で、6都府県だけでした。福岡、神奈川、愛知、大阪、京都、東京です。このことを知った時には一種感動を覚えました。
日野はそれまでの図書館のあり方そのものを大きく変えましたが、その条件のひとつが、当時の常識を超えた図書費でした。図書館は長い時間の積み重ねが必要な地味な事が多い仕事ですが、同時に飛躍して高い水準のサービスを実現することも必要だということを、この時の日野図書館は証明してみせました。
 
日野図書館より前には、図書館の主な利用者は図書館を学習室として使う学生でした。そのような学生だけを相手にしていると、ある程度の人数がきて繁盛しているようにみえますが、机を使うだけで資料やレファレンスなどにシビアな要求をしてこない、図書館にとっては楽な利用者でした。
1970年代になって日本の多くの図書館は貸出を中心にした活動をするようになりました。まず利用してくれたのは子供と主婦で、図書館がにぎわうようになりました。「いつでも、どこでも、何でも、誰にでも」をモットーにしてサービスに努めていると仕事や趣味の本をさがしてお父さんも利用者になり、その後には図書館を利用するのにさまざまなハンディキャップのある人へのサービスも必要だと気付きました、大人ではないが、子どもでもない若い人たち、ヤングアダルトにも彼らのための場所と資料を用意するようになりました、最近では、高齢者にとっても図書館が大事な場所だと考えられるようになってきました。
図書館は「自分に必要な資料を自分で選べる」場であり、利用者が求める資料を「草の根を分けても探す」ことが、博物館や公民館など他の教育・文化機関とは違う役割です。この点、資料と情報を提供することを大事にして活動をしていると、図書館は学び、交流する場としていよいよ重要になってきました。
以上がごくかいつまんだ日本の図書館の歩みです、田原の図書館はこの図書館の歩みと将来への発展をふまえて計画、設計され、運営をしてゆく決意です。